LOGIN適正額。
私はその言葉を信じていた。 鷹宮家の「適正」が、私の知っている日本円と同じ尺度で計算されていると思っていた。 でも、ここまでの流れがある。 本当は気づかなければいけなかった。 安全確保と言われて連れていかれた先が、夜景つきの高層マンションだった。 最低限の衣類と言われて用意されたジャケットを、朱音は朝一番で見抜いた。 仮住まいにはコンシェルジュがいて、駅まで送るスタッフまで現れた。 そして久世さんは、そのすべてをほとんど表情も変えずに処理していた。 鷹宮基準。 私はもう何度も、その言葉に殴られている。 なのに。翌朝、出社してすぐ、朱音に顔を見られた。「昨日、ラーメンだった顔してる」「どんな顔?」「普通に楽しかった人の顔」「ラーメンはおいしかったよ」「ラーメンだけ?」「……味噌だった」「味の話に逃げた」 朱音はにやにやしながら、自分の席へ戻っていく。 否定したいのに、できない。 昨日の夜のことを思い出すと、胸の奥がまだ少し温かい。 券売機の前で真剣に悩む玲央さん。 写真の湯気がおいしそうだったから、という選び方。 次も、と自分から言えたこと。 それは、思っていた以上に私の中に残っていた。 けれど、浮かれてばかりもいられなかった。 午前中、上司から声がかかった。「朝比奈さん、少しいいですか」「はい」 会議室へ入ると、事業推進室の担当者も同席していた。 テーブルの上には、結和ケア試験導入の中間共有資料が置かれている。「来月の部内共有で、朝比奈さんから短く話してもらいたいと思っています」「私が、ですか」「はい。成功報告ではありません。現場の声を受けて、どう修正しているか。その過程を共有したいんです」 成功報告ではない。 その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。「まだ完成していませんが」「だからです」 上司は淡々と言った。「完成した資料より、途中で何を削り、何を残したかの方が、他の案件にも参考になります。特に、現場向け資料を作る部署には意味があると思います」 途中の判断。 その言葉は、最近何度も私の周りに出てくる。 完成していないことは、以前なら弱みに思えた。 でも今は少し違う。 迷ったからこそ、説明できることがある。 直している途中だからこそ、話せることがある。「分かりました。準備し
その日の退勤間際、玲央さんからメッセージが届いた。『本日、少しお時間はありますか』 画面を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。 仕事の話かもしれない。 そう思ったのに、続けて届いた文面は違っていた。『駅前で、夕食を選ぶ練習をしたいです』 私は思わず笑ってしまった。 夕食を選ぶ練習。 以前なら、そんな言い方をする人はいなかった。 けれど玲央さんが言うと、本当に練習なのだと分かる。 正解ではなく、好きで選ぶ練習。 必要性ではなく、食べたいもので決める練習。「何、顔ゆるんでる」 隣から朱音が覗き込んできた。「ゆるんでない」「今の顔でそれ言う?」「仕事終わりの連絡」「水族館の人?」「……うん」「水族館の人、呼び名がずっと水族館の人なのじわじわ来るね」「朱音がそう呼ぶからでしょ」「で、何だって?」「夕食を選ぶ練習がしたいって」 朱音は三秒ほど黙ったあと、真顔で言った。「水族館の人、幼児教育みたいなことしてる?」「言い方」「だって夕食を選ぶ練習って、なかなか聞かないよ」「本人は真剣だから」「そこが余計に面白いんだけど」 否定しようとして、できなかった。 嬉しい。 たぶん、嬉しい。 会う理由が仕事ではないこと。 でも、恋人らしい約束と言い切るには、まだ少し怖くない距離であること。 その曖昧さに、私は安心しているのかもしれない。「行ってきなよ」「うん」「仕事の名前で呼ばれ始めた琴葉が、仕事終わりにご飯行くのいいじゃん」「何それ」「成長記念」「大げさ」「大げさじゃないよ。今日は行っときな」 朱
社内での評価は、拍手と一緒に上がるものだと思っていた。 誰かに大きく褒められる。 会議で名前を出される。 成果として分かりやすく数字に残る。 そういうものだけが、評価なのだと。 でも、実際は少し違った。「朝比奈さん、この表現だけ確認してもらえますか」 午前中、事業推進室の担当者から声をかけられた。 結和ケア向けの修正資料ではない。 別の地域連携案件で使う、自治体向け説明文だった。「私でいいんですか?」「はい。現場向けと管理者向けで、言い方を分けるところを見てもらいたくて」 差し出された資料には、丁寧な文章が並んでいた。 けれど、少しだけ固い。 誰に向かっているのかが、途中でぼやけている。「ここ、自治体の窓口担当者向けなら、先に問い合わせ先を出した方がいいかもしれません。目的の説明は必要ですが、最初にあると少し遠く感じます」「やっぱりそうですか」「あと、住民向けにそのまま使うなら、言葉をもう少し変えた方がいいと思います」 そう言うと、担当者はすぐにメモを取った。「助かります。朝比奈さん、最近こういう整理が上手いですよね」「上手い、というほどでは」「いえ。使う人ごとに分ける視点、こちらでも参考にしています」 その言葉に、私は少しだけ返事に困った。 褒められている。 でも、大きな成果としてではない。 必要な時に少し意見を聞かれる。 そのくらいの小さな形で。 午後には別の部署からも声がかかった。「朝比奈さん、結和ケアの確認カードって、三行にしたんですよね」「はい」「うちの案内文も短くしたいんですが、削ると怒られそうで」「誰に向けた案内ですか?」「登録事業者向けです」「それなら、全部削るより、最初に“今日確認してほしいこと”を
白藤福祉財団の応接室で、紗雪は一枚の中間共有メモに目を通していた。 鷹宮グループが進める生活支援連携案について。 結和ケアとの試験導入初期の状況。 利用者個人が特定される情報は含まれていない。 どの地域で、どの家庭で、何が起きたのかも書かれていない。 あるのは、試験導入の進み方と、現場側から出ている改善点、そして小さな利用事例だけだった。 現場向け確認カードを使用した初回事例あり。 連携導線の確認。 家族連絡の重複を一件削減。 紗雪は、その一文で指を止めた。 一件。 数字としては、あまりにも小さい。 成果として誇るには控えめで、事業として語るにはまだ早い。 大きな会議の場であれば、見落とされてもおかしくない数字だった。 けれど、紗雪は笑わなかった。「紗雪様。こちらの案件、現段階ではまだ評価が難しいでしょうか」 財団の理事が向かいから尋ねた。 年配の男性で、白藤家とは長く付き合いがある。 穏やかな人だが、数字を見る目は厳しい。「難しいことは確かですわ」 紗雪はメモを静かに置いた。「ただし、軽く見る段階でもありません」「一件だけですが」「ええ。一件だけです」 紗雪は否定しなかった。 小さいものを無理に大きく言い換える必要はない。 それは、かえって品がない。「けれど、初期導入で大事なのは、最初から大きな数字を出すことだけではありません。現場が一度でも使い、その結果が戻ってきて、次の改善につながるかどうかです」 理事は少しだけ目を細めた。「継続の芽、ということですか」「そうですわ」 紗雪は頷いた。「新しい仕組みは、説明会で拍手されても使われないことがあります。逆に、最初は厳しい声が多くても、使われた上で具体的な指摘が返ってくるなら、まだ育てられる余地があります」
ノヴァリンクの会議室で、陽斗は新しい資料に目を通していた。 生活支援領域に関する競合動向。 鷹宮グループの試験導入状況。 地域事業者との連携可能性。 小鳥遊ホールディングスとの共同構想を進めるうえで、確認しておくべき項目はいくつもある。 その中の一枚で、陽斗の視線が止まった。 鷹宮グループ側の生活支援連携案について。 結和ケアとの試験導入は、現場負担を抑える方向で調整中。 交流会後の参加者メモには、現場側の意見を反映しながら運用案を修正しているとの記載がある。 説明担当者。 朝比奈琴葉。 その文字を見た瞬間、資料の内容が一度遠のいた。 琴葉。 陽斗の中では、まだそう呼ぶ名前だった。 けれど資料の上では違う。 朝比奈琴葉。 鷹宮グループ側担当者。 過去の婚約者ではなく、他社の資料に載る担当者の名前として、そこにあった。「一件削減、か」 隣の社員が資料を見ながら言った。「数字としては小さいですね。まだ警戒する段階ではないかと」「ああ」 陽斗は短く答えた。 たしかに、数字だけなら小さい。 大きな導入実績ではない。 市場を動かすほどの成果でもない。 けれど、陽斗はそこを簡単に流せなかった。 資料には、初期成果という見出しではなく、最初の利用事例と改善点、と書かれている。 大きく見せようとしていない。 けれど小さく扱いすぎてもいない。 その言葉の選び方に、交流会で見た琴葉の顔が重なった。 任された仕事を考えて、現場の話を聞いて、自分で答えた。 あの時の声。 あの時の線の引き方。 陽斗の知らない琴葉だった。 いや。 知らなかったのは、本当に琴葉の方だったのだろうか。「陽斗さん」
一件だけの成果は、思っていたより早く社内に広がった。 もちろん、華々しい成果としてではない。 試験導入初期の共有事項として。 生活支援連携案の初期反応として。 担当部門の中で、いくつかの資料に小さく載っただけだ。 それでも、私にとっては十分だった。 現場で一度使われた。 迷いが一つ減った。 電話が一つ減った。 その意味を、ちゃんと説明できた。 そう思っていた。 午後、事業推進室の共有スペースで、次回修正案について話していた時だった。「電話が一本減った、か」 少し離れた席から声が聞こえた。 管理部門の人だった。 名前は知っている。 直接話したことは、ほとんどない。「それを成果として出すには、少し弱いんじゃないですか」 声は大きすぎない。 けれど、聞こえる程度にははっきりしていた。 周囲の空気が、少し止まる。 私は手元の資料を押さえた。 胸の奥が、一瞬だけ縮む。 弱い。 その言葉は、分かる。 数字として見れば、たった一件だ。 新規事業の成果として掲げるには、小さすぎる。 そう言われても仕方がない。 けれど。「朝比奈さん」 事業推進室の担当者が、少し心配そうに私を見た。 私は小さく首を振った。 大丈夫。 たぶん、大丈夫。「確かに、大きな成果ではありません」 私は資料を持ち、声のした方へ向いた。「電話が一本減っただけで、事業化の判断ができるとは思っていません」 相手は少し意外そうにこちらを見る。 反論されると思っていたのかもしれない。 あるいは、黙ると思っていたのかもしれない。「ただ、今回の試験導入で見たいのは、最初から大きな数字だけでは